ギフテッドの子にボードゲームとか ホームスクールとか

子供とホームスクールで遊びまくってます。色々家で教えてきたので手作り教材とか多め。ボードゲームも好き。子供にフラワーアレンジメントとか。遊戯王歴8年、親子で駆使するデッキは300個以上。遊戯王のオリカ作成、デュエル中のディレクターや音響さんは子供が担当。

ルナール著「にんじん」に見る家庭内の意地悪、不毛の毒親

「そうだろうね。みんなその人その人でつらいことがあるんだろうね。ぼくは、あしたは人のことをきのどくに思ってあげるよ。今日は、ぼくが正しいと思うことをいうんだ。だれでも、ぼくよりはましだよ。ぼくには、ひとり、かあさんがいる。そのかあさんが、ぼくをかわいく思っていない。そして、ぼくもまた、かあさんを好きじゃないんだ。」(世界名作童話全集 にんじん物語 ㈱ポプラ社)

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児童文学の「にんじん」、いくつか翻訳が出ているようですね。
小さい頃にこの「世界名作童話全集」で読み、簡明な言葉で描写される複雑な心理の世界に初めて触れたのを思い出します。フランスの田舎のちょっとした富裕層の家族。召使たちを何人か使い、地下にはワイン倉庫や燻製室もある。

夫婦仲がもう相当冷え切った時にできた子なのでしょうか。
ともかく、赤毛でやせっぽちで、愛情不足のためにか一見、物欲しげで、家族にもさんざん低い扱いをされる「にんじん」が、実はもっとも聡明で、心が健康で、すごい観察眼で家族や周囲のものごとを見てるんです。
でもそれに気づくことが出来るのは読者だけ。
もしくは、全くフィールドが違って一から、にんじんそのものを見てくれる寄宿学校の友や先生だけ。

あまりにもおかしな扱いをされ続けるので、防御や回避の影響がどうしても出てきて言ったことをあわてて撤回したり、やりたくないこともやりたいと見せかけるので本心とのギャップからくる行動で、にんじんは、奇妙な子、つかみどころのない子と思われています。
男の子ですから勇敢に見せたい場面の功名心も、役目を任されたかと思うと落とされて膨らんだ気持ちに冷水をかけられるような日々。
「にんじんはあれでうまくやったつもりなんだよ。可哀想なシャコ(狩猟のえもののキジ科の鳥)。私は、あんなひどいめにあいたくはないね。おそろしい子だよ。」それに迎合する兄さん「ほんとだ。いつもよりへただったね。」

真っ暗な庭のこわさを我慢して鳥小屋の戸を閉めに行き誇らしげに戻ってくると暖かい部屋でぬくぬくとしている家族はみんなで知らん顔。少年の褒めてもらいたい認めてもらいたい気持ちをさんざん誘導して利用した後で、申し合わせたようにいっせいにその気持ちを無視するという意地悪。

見ていると、母親のルピック夫人が先導をして、その尻馬にのる形で兄貴がはやしたてたりねえさんが頼りにならなかったり、父親のルピック氏が見ないふりをしているんですね。
だれも、ルピック夫人のわかりやすい意地悪を止めないので、結果、公認となっています。消極的なかたちではあるけれど全員参加型のいじめ。

父親のルピック氏はパリでの仕事が忙しく、自宅では夫人が家を取り仕切るのに任せています。
にんじんが、生まれて初めて、恐ろしい権力者である母親に死ぬ気で反抗したとき、ルピック氏はにんじんに、のどが潰れるような声ですがりつかれると、「草の中を、二足 三足歩いて、肩をひょいっとあげて、くるっとまわれ右をして、さっさと家の中に入ってしまいます。」

食事時にはきちんと主人の席にすわるけれど無口。家族みんな黙ってひとことも言わずもくもくと食べるだけ。ルピック氏は感情をあらわにすることを好まず、黙ってなんでも一人でやるか面倒なことは・・・それは感情をあらわにする夫人の存在丸ごとだったりするのですけれど・・・やりすごすかします。
「おとうさんが一番先にテーブルにつきます。ナプキンを広げて胸にかけて、大皿から自分の皿に肉をよそってソースをかけます。飲み物も自分でつぎます。それから背中を丸くして、目を伏せて、いつもと同じように、人とは関係がないといったような顔をして、食事をします。」

まるでこの人には家族も要らないようにも思えますが、賢いにんじんのさすが父親、子供たちのことを意外と見ているこのルピック氏は、にんじんがふくれっつらをしているとさりげなく散歩にさそってきたりします。「わたしが聞くのを待っているのかね、にんじん。さあ、今日、なぜお前があんなことをやったのかわけを言ってごらん。かあさんを、あんなに悔しがらせてさ。」ルピック氏は、厄介なルピック夫人には一切コミットしようとしないのですが、末っ子のにんじんの手紙のセンスや独自の考えは面白いと思っていて、機会があれば自由に発言させようとします。

ただ残念なことに、せっかくにんじんが正直に自由に考えを述べても、常識や礼儀や辛抱を持ちだしてきていさめるというパターンから一歩も出ようとはしてくれないのですが、それでも、考える事は推奨し続けるルピック氏のこの姿勢と遺伝子のおかげで、にんじんの聡明さだけはつぶされずにすんだのかと思いました。

ルピック夫人の虐待のひどさばかりが言われる「にんじん」ですが、どういう経緯で結婚したのかは描かれていないですけれど夫婦の性格があまりにも合わないためにこんな不毛が死ぬまで継続するなんて恐ろしいですね。もしルピック氏が「かささぎのようにおしゃべりな」「料理名人の」ずいぶん年下の妻を選ばなければ、あるいはそんな妻を可愛いと思うような男であったならば、全然違った展開になっていたかもしれませんね。でも実際には妻に対して打つ手なしで完全に家庭を投げていて、にんじんの「ぼく、死のうとしたことがあるといったらどうする?」という問いかけに対しても、事態を積極的に解決するのではなく、にんじんに「大きくなれば自由になれるからそれまでまわりの人たちをよく見るんだ。はたちになるまではじっと我慢するんだ。」と雌伏を求めます。
いや目の前の子供助けてやれよ。
「にんじん」は作者のルナールの実際の子供時代の家族関係がモデルだということらしいですので、憂鬱の末、病気を苦に自宅で猟銃自殺してしまった父親、井戸で溺死した母親、ルナール自身も46歳で病死と聞くだけで、ああ・・・やはり重大な問題をはらんだままの我慢、忍従ではこのような結果になるのだろうかと、「にんじん」を読み返すたびに、この淡々と書かれた物語を、決して子供向けとは思えなくなっている私です。